大沢タハハ本舗
十年前の私に…、の巻
10年後のぼく
2000年X月X日、いつものようにごろごろしながらアルバイトニュースと、住たく情報とを交たいに見る。今の家はすごいボロ家で、バルサンであぶりだしてもすぐどこからかゴキブリが出てくるというしろものだから今家をさがしている。大学の方もなかなかうまくいかない。すきま風もふきほうだいなのでガムテープで目ばりをする。ゆうびん受けを見ると、ふうとうが入っていたので開けた。差し出し人の名が先生の名前になっていた。中から写真が出てきたので見ると、子じわの多い年をくった先生とにた顔が写っている。これがそうなのかと思いながら文を読むとそこには、今は先生をやめて、あてもなくうろうろしているというのだ。こりゃ自分よりひどいなと思った。さていったいどんな仕事をして、どんな家にすもうかな。
すごくおもしろくて先生は、大うけ。書き方がぐたい的だし、場面が目にうかぶ。10年後は、もしかすると、万鈴公路くんの書いた小説が、直木賞を受賞ということになり、その賞金と印税でガッポリお金が入り、万鈴公路くんは、ごうかマンションを買って、住んでいるかもしれない。
※その時は、テレビで恩師の藤川先生をしょうかいすること。
(以上原文のまま)
そんな訳で今回はちょっと異色の始まり方をしたが、これは何かというと、つい先日我が家のトワイライトゾーンから発掘された、僕が10年前に書いた作文である。それで、2000年の10月現在僕はどうなのか。まぁ、大学の方は…(検閲により削除)…。幸いボロ家には住んでいないし、金の方もないものはないなりにやっていっている。当然のことだが直木賞を取ることも、印税ガッポガッポも、ごうかマンションもなしである。つまるところ十一歳のガキンチョ時代の僕が描いた将来の姿は幸いというか残念ながらというか実現していない。それにしても当時の僕というのは大学生というものに対してこんなムチャクチャなイメージを持っていたということを目の当たりにして我ながら愕然としてしまった。これじゃあまるで昭和三十年代か四十年代の苦学生じゃないの。まいっちんぐ〜、である。この作文を書いたときのことはぼんやり覚えているが、クラスのほかの人民はまじめに将来の夢(野球選手とか、歌手とか)と、それを成就した自分の姿を書いていたのだが、当時から大した夢などなかった僕は、ネタに走ったのであった。なお、この作文は僕のクラスの全人民の前で先生が読んだそうだ。その日は丁度幸いにも僕は熱を出していたのでそんな拷問に立ち会わずにすんだ。今から考えてもいや〜ん恥ずかしい〜やめてやめて〜と叫びながら田中康夫かゾイサイトのようにクネクネしてしまいたいくらい恥ずかしい!(と言いながら、こうしてここに発表してしまう。ネタのためなら多少の犠牲は厭わないのである)
ところで、この文章を書いた当時から変わっていないものがある。それは中途半端な笑いを取る文章を書く能力と、年不相応なボキャブラリーを多用している点である。次のほぼ同時期に書かれた作文を見ると、僕が当時からいかにこまっちゃくれたイヤなガキンチョであったかがおわかりいただけると思う。ちなみにこの作文は学年通信に掲載された。
サウンドスキーと二穴どう穴
弓ヶ浜学園(杉並区の公立小学校に行くと必ず移動教室で訪れる施設。因みに冬は菅平にある施設へ行ってスキー教室をする)に着いて2日目の日、サウンドスキー(注 正しくはサンドスキー。ガキンチョなのでサンドとサウンドの区別がつかなかったのである)と二穴どう穴に行きました。学園を出て、えんえんと歩いて、足がぼうのようになったとき、やっと、サウンドスキー場の近くへつきました。近くにくさいにおいのする公衆便所があって、鼻が変になりそうでした(現在の筆者の声…む〜、当時から同じネタを使っておったか)。その便所のわきのはこの中から、そりを持ってきてスキー場へ行きました。サウンドスキー場へくると、白い砂がつみかさなった、急な坂がありました。ほん当にあんなところからすべるのかと思うと、少しこわくなりました。でも本当はその坂は、三角定規の一番小さな角度の30度しかなかったのですが、そんなことは、とても信じられないくらい急に見えました(この一文には花丸がつけられている)。先生の注意を聞いてから、坂を登りだしたのですが、ふつうのアスファルトの坂を登ることになれすぎていて、砂のしゃ面を登るのにすごく苦労しました。(中略)そりで坂の上からすべり出すと、あまりスピードが出ないで、左右によろけ出して、そのまま前にあった岩にぶつかるような気がしたので、方向を変えようとしたら、ひっくり返って頭から砂の中につっこんで止まりました。
二度目も同じように、てっぺんまで上るのにくたくたになってしまっていました。
滑り出すと、一度目と同じように、あまりスピードが出ずに、よろよろしだしましたが、今度は、岩にぶつかるような感じではなかったので、そのまま滑っていきました。最後の所まできて、そのまま止まらないで、前にごろごろしている、岩の集団に突っ込むような気がして、足でブレーキをかけようとしたら、足がそのままズボッと砂の中にはまるような感じになって、そりが横転して止まりました。今度は、シャツの中にまで砂が入りこんで、全身砂まみれになりました。その時ぼくは、はらが立ったような、気持ちの悪いような変な気持ちになりました(ここからいよいよボキャブラリーが冴え渡る)。三回目にすべった時は、女子が下で井戸ばた会議のような立ち話しをしていて、その話している場所が、ちょうどすべっていくコースの真正面で、そのままいくと、その集団の中につっこむことは、保証つきで確かでした。その時はもうその集団のすぐ近くまで来ていたので、止まろうとして、ブレーキをかけました。その時まで連中は、そりがとっ進してくることに全然気付いていなくて、そりが、ひっくりかえってぼくが放り出されるまで、平然としていました。この時は、本当にはらがたちました(見よ!この男尊女卑的言い種。こんな作文を書くガキのことだから、今でもそうだが当時から色気も何もあったものではなく女子からは気味悪がられるか、からかわれる対象でしかなかった。そこから生まれた女性不信がこんな形で現れているのである。とは言っても逆恨みもいい所なのであるが)。
しばらくして、サンドスキー場から、どう穴に行って、写真を取ってから弁当を食べました。そこは、天じょうは、青天じょうですっぽぬけていて、空が見えました(この一文に先生は注目したらしく、一字一字に傍点がふられている)。かべに穴があいていて、そこから波が入りこんでいました。飯山君(彼は龍馬というカッチョイイ名前だった)や他の何人かが、カニをつかまえていました。(中略) それから学園へ帰りました。全身よごれていて、つかれていましたが、この日が一番楽しかったような気がします。
(以上括弧内以外原文のまま)
なんちゅ〜か、改めて読み返すとげんなりしてしまう。もっとげんなりしてしまうのは、当時の僕の筆跡が今とあまり変わらないことである。内容的にも当時からすでにシモ周りのネタを使うなど成長が見られない。思わず「最低だ…俺って」と呟きたくなってしまう。が、逆に考えてみると、これまではこの十年で僕は自分がえらく変わったなという気がしていた。しかし今こうして出てきた十年前の自分の書いたものを見てみると、当時から今まで変わっていない部分が意外にも認められるのである。よく思い返してみると、これらの作文が書かれたころというのは、僕の中の極めて大事な部分が形成された時期だった気がする。現在でも僕のバイブルの一つである「マッハの恐怖」(注)を近所の図書館で見つけて読み始めたのはこのころだった。テレビ洋画(「大草原の小さな家」とか「頑固じいさん孫3人」とか「ジェシカおばさんの事件簿」など)やドラゴンボールのエンディングクレジットの声優の名前を覚え始めたのもこのころだった。初めてボットン便所と遭遇して一生消えない心の傷を負ったのもこのころだった気がする。母が毎晩読んでくれたアーサー=ランサムの本は、その舞台、イギリス湖水地方への憧れをかき立てた(これはもう少し前のことだったかもしれない。さすがに5年生のころにはこの寝る前の習慣はなくなっていた)。要するにここまでの連載に現れている僕のネタはすべてこの時期に形成され、今まで連綿と受け継がれてきたのだ。当時の僕の写真を見てみると、ちんちくりんで坊ちゃん刈りの四角い眼鏡をかけた典型的な憎たらしい小学生である。それから十年後、外見的には身長175センチの見目麗しき偉丈夫に成長した(わ〜っ、うそです、すみません!お願いだから顔はぶたないで女王様ぁっ!)。今までこの10年前の写真を見るたびに「フッ。俺も人生の荒波を乗り越えてちったぁ大人になったものよ。あのころの俺はもう今の俺の中には残っちゃいねぇ」などと思っていたのだが、当時の僕は今の僕としっかりとつながっていたのであった。
結局、年を取るというのはそんなものなのかもしれない。「どこまで行っても僕は僕でしかない」のかもしれない。そう思わせてくれた十年前の僕の生の声が今、目の前の原稿クリップに挟まっている。これからもこれは取っておくとしよう。なぞと珍しくクサい台詞を吐いてしまう十年後の僕でしたとさ。めでたしめでたし。
(了)
(注)マッハの恐怖…「サクリファイス」などで
現在、生と死の問題のエキスパートとして
知られる柳田邦男氏の最初の著作。
大谷壮一ノンフィクション賞受賞。昭和
41年の連続航空機事故を長期にわたって
追跡しつづけた珠玉のドキュメント。この
本と、続編の「続・マッハの恐怖」を僕は
それこそ暗記するくらい読んだ。あまりに
僕が何度も図書館から借りてくるのを見
かねた両親が誕生日に新品の本を買って
くれたのだが、それもカバーがズタボロに
なるほど読みつぶして、現在僕の部屋の本
棚の真ん中のもっとも栄誉ある位置で永
久保存されている。