評価について
A…これは凄い。これを見ないと一生後悔する。古典としてたたえる価値あり。
B…よく出来ている。払った銭に対する見返りとしては十分。見て損無し。
C…積極的にお勧めはしないがさりとて全面的に否定もしない。お好みに応じて見ていただくのがよかろう。
D…銭返せ!他の事に時間を使ったほうがよい。
E…存在する事自体問題。あまりにもひどすぎる。こんな物を作ったやつは粛清すべき。
本放送の同録を、それこそ暇さえあれば見ていたあの熱狂から思えば15年の月日が流れ去ろうとしている。シンちゃんが病室でズリコいているのを見て、これじゃあmadを作る楽しみがなくなっちまうじゃないかと嘆いたり、とにかくひたすらキャラが死んでいくのを見て、ああ、こりゃもう駄目なんだなと、既に冷めかかっていた熱が完全に冷めて、この作品が1つの通過ポイントとして距離を持って見るようになってからも暦が1周しようとしている。そんな今、またこれを敢えて作りなおそうとは何たることか。しかし、それでも、いや、そうであるからこそ見なきゃならん。そんな義務感から「序」を見に行った。結果は予想通り、若気の至りをあれこれ思い出して口の端に引きつった笑い、背筋に嫌な感じの汗を浮かべつつ、きれいになった映像やすっかり様変わりした中の人々の芝居や、ほんの少し変わったように見えるものの基本的にダイジェストの域を出ないプロットを生温く見守ることとなった。次回予告で新キャラや新ギミックの登場が示唆されても、次回作に対する期待はそう高まらなかった。結局のところ、最終目標はあの閉塞しきった内容を今風の「普通の」アニメに書き直すことなんだろうから、そんなにがっついてみる必要は一切ないだろうと。
その思いは「破」が公開され、案の定ヒットしたと聞いても変る事はなかった。正直劇場まで見に行くかも迷ったが、近所で、それも比較的遅い時間から初回が始まるというので、じゃあと思って見に行ったが、やはりなお期待はしていなかった。予告編で見た、どう見ても面白いに違いないと思わせる「サマーウォーズ」の方にむしろ気が行っていた。
いざ蓋を開けてみると、面白い。悔しいが面白い。技術については普段からあまり気にしないので、さほど細かな事は言わないが、少なくともやるべき事はちゃんと押さえて、気持ちのいい映像に仕立ててある。プロットもまぁ、予想通り「普通の映画」への舵取りがなされているが、今、このご時世にこの内容というのは正しい選択というほかないだろう。総じて、上にある基準の「見ないと一生後悔する」とまで言い切れるものではないが、それでもかなり重大な意味を持つ一品となった。
まず第一に感じるのが、本放送といい今回といい、この作品はなんと所謂「現実」と上手く呼応するのだろうということ。本放送は、戦後がまさに終わりつつあった95年から96年という時期の臭いを、意図的ではないにしろこれ以上ないほど的確に捉え、それを表現しようとした。最終的には自分自身がそのゴタゴタに飲み込まれる形になったものの、高まりつつあった社会的な変化、それも明らかに「悪い」方への変化の兆しを、あの言語過剰・表現過剰・示唆過剰を通じて示した。次に来る最初の映画版は、言ってみれば漠然とした不安だったものに明確な形を与えたが、それは結局のところ恐ろしく鬱な生の肯定、当時、宮さんの言った「突き抜けたニヒリズム」にも通じるものを、いよいよ下り坂に入ったように思える「戦後後」の世の中に突きつけるものだった。が、今回はあろうことか、鬱が消えた。Zの映画版で富野が「修正史観」を通じてお馴染みの鬱を一掃したのと全く同じ手つきで鬱を一掃した。戦後が終わったと言われてから14年、世界が終わらないであろう戦争に突入してから8年。消極的な生の肯定は、まるでそのような現実を受け入れ、消化したかのごとく、少なくとも「破」では、いささかこっ恥ずかしいほどの直截な生の肯定へと移ったように思える。
が、本当にそうなんだろうかと疑いたくなる辺りがやはりこの作品。たとえどんなに幸せそうな展開を序盤から中盤にかけて見せようと、絶対それでは終わらないだろうと分かっている。そして現に最後にはそのお膳立ては崩壊するのだが、不思議と悲壮感はない。「今日の日はさようなら」の流れる3号機破壊シーンは鬼気迫るものなきにしもあらずだが、これまでの劇場版での扱いを見ていると、もしここでアスカが死ぬなら、まぁそんなものかと妙に納得してしまうような所がある。最後の綾波特攻でも、ある種、例の「笑えばいいと思うよ」の再現があったことにより、「多分3人目」云々の台詞を初めて聞いたときの、あの、分かっていたこととはいえ何とも言われぬ嫌な感覚を伴う話運びも修正された。さらに予告によると、結局アスカもあんなことにはならないし、シンちゃんもやっぱりズリコかないようなので、その辺も含め、どうも徹底した抗鬱・躁化が図られているのがはっきりと見て取れる。少なくともここでは肩透かしの気配はない。
しかし、それでもやはり信じられないのがこの作品。マリの性格づけは、徹底して「いい加減」言うなればC調で無責任ということらしいが、見ている限り、どうもそうは見えない。実際には、ご多分に漏れずコミュニケーション不全を抱えた、俺様ちゃん的ないい加減さ、無責任さのように見える。「365歩のマーチ」を口ずさみつつ出撃する冒頭など、軽く狂ったようなものを感じる。あれは将来、第二のアスカになるのではないかとそこはかとなく感じられたが、どうなるか。
今回、「破」で最も興味を引かれたのは、「未来」と「過去」の捉え方だ。これまで以上に「日常」がはっきりと織り込まれた今回の一連の映画版は、オリジナル版より一層、そこに描かれる近未来と、それ以前の過去との間のつながりを明確に示している。それどころか、昭和に対するある種ノスタルジアとまでは言わないまでも明らかな連続性・つながりへの欲求を意識的に見せている。視覚的には買い食いのシーンの、どこにでもある駄菓子屋などが好例だが、それ以上に、音楽に注意すべきだろう。「ふりむかないで」(勿論ハニーナイツではなくザ・ピーナッツの方。これが流れてくるラジオにも注目)、「恋の季節」、「365歩のマーチ」、そして「今日の日はさようなら」と「翼をください」まで、要所要所で流れる昭和の歌は、単に歌詞内容がシーンに合っているというのみならず、セカンドインパクトによって寸断され、さらにその後の諸々によってそれまでの「日常」が完全にひっくりかえったあの世界と、戦後の昭和との間に橋を架けている。戦後が終わったといわれる年に作られたオリジナルでは、そのような連続性への志向は見られなかったことを考えると、非常に興味深いものがある。セカンドインパクトの年はとうに過ぎ去り、本放送の年よりも2014年の方が近くなった今、あそこに描かれた近未来は、既に「未来」としての力を喪失したように見える。そこにこの過去との連続性を求めているかのような選曲が忍び込んできた。敢えて無茶な飛躍をするなら、始まった変革が、個人と集団の境界の喪失・神と人間との境界の喪失のみならず、歴史の喪失、過去と現在、未来の間のリニアな発展としてのつながりの喪失、時間の渾然一体化も意味すると示唆しているような気がした。
こうして、とうとう本編からの分岐、本格的な「歴史の修正」が始まったわけだが、既に述べたとおり、果たして本当にこのまま「抗鬱・躁化」へと進んでいくのか、予断を許さない。いきなりどんでん返し・ちゃぶ台返し・「はい、カット」並みの大サプライズがありうるのがこの作品。最終的にどこへ行き着くのか、「Q」を見るまで最終的な評価を下す事は出来ない。それでも、今回の「破」はここまで大胆に修正を行ったにもかかわらず、違和感のようなものは感じなかった。いや、正確にはある種の違和感はあった。が、それは、これが物凄い同人作品なんじゃないかという感覚だった。あまりに何度もメタや「正典」で語りなおされたこの話だからこそ感じる感覚だろう。そしてだからこそまた、ここまでの大胆な修正を行っても、それに反対する意見があまり、いや殆ど見られないのだろう。が、そうなると果たしてこのシリーズはどの部分をもって評価すべきなのか。その答えも、次で明らかになるのだろう。
そういえば、蛇足ながら終盤に零号機が食われるシーン、あの、バクッと喰われる様が何故かテリー・ギリアムチックに見えて、思わずニヤついてしまった。笑いと「悪趣味」はやはり紙一重なのか。