萌え革命
「今、この地上を一匹の怪物が徘徊している。萌えという名の怪物が」
カール・マルコス『萌え論』
随分前に日記に書いたことだが、去年の正月、半年ぶりにアキバを訪れたとき、某とら○あなビル(確か当時はまだ現在の場所に移住する前の例のペンシルビルだった)から「No moe, No life」という垂れ幕が下がっていた。これをぱっと見たとき一瞬moeが萌えの事だとわからず、モーってなんだろう、と考え込んでしまった。
しかし、これは考えてみると恐ろしいコピーだと思う。「萌え」なくして人生なし。これが「Sine musica, non vita/No music, No life」なんていうのなら、それはそれでいいというか、特に気にもせずに通り過ぎてしまう所だが、こと萌えとなると何かが引っかかる。萌えという言葉が帯びている胡散臭さというか、うそ臭さと言うものがどうしても脳裏に浮かぶのである。
あえて言うが自分は「萌え」と言う言葉が嫌いだ。どうもそこにはコマーシャリズムの臭いがホンノリと漂っている気がするのだ。最近では「萌え」と言う言葉も大分裾野が広がってきて、アニメゲーム系以外のものに対しても使われるようになっているが、ここではその辺は措いて、所謂その筋のコンテクストに於ける「萌え」についてのみ考える。
先日気になる記事を見つけた。2004年4月14日付朝日新聞朝刊18面『おたく文化 ベネチアへ』。内容はおおよそ次の通りである。
今年9月にベネチアで開かれるベネチア・ビエンナーレ建築展の日本館のテーマは「おたく文化」である。海洋堂がアニメ的美少女やロボットの食玩を出品。また萌えを視覚的に現地の人々に伝える手段として人気原型師の手によるフィギュア「新横浜ありな」が展示される。そのほかにもおたくの個室の「箱庭的模型」の展示やコミケ会場の模型などが並べられ、天井からは美少女ゲームのポスターが大量にぶら下げられることになる。
これが建築展に関する概要である。記事の写真を見ると、2chのデブヲタAAやアキバに集うその筋の人々の巨大パネル、その筋の店風のDVD、CDなどの陳列棚などが並び、天井からは確かに大量のポスターが下がっている。正直な所これだけならどうと言う事もない内容なのだが、問題は同じ記事の中にある、この展示のコミッショナーを務めた『魔都の誕生』の著者、森川嘉一郎氏に関する部分である。曰く、
(以下引用)「おたく文化は日本独特だが、おたく的な人物像は世界中に広く現れている。国や民族といった枠を超え、人格を基本にした文化圏」と考える森川さんは、「個室から都市までを横断する観念として、おたくの人格や人物像を前面に出したい」と語る。(中略)森川さんは、複製物にもオーラを見る「萌え」を、「わび・さび」などと並ぶ日本の美意識になりうる、と考えているようなのだ。(以下略)
前半に関しては確かにその通りだと思う。渡英した折に、土地のその筋のサークルに行って、恐ろしい事に国は違えどその筋の人々が発するオーラはなんら変わる事がないというのを身をもって体験した者として、全くその通りだと思う。中段のこの展示の狙いについても特に言う事はない。問題は最後の部分である。この部分は森川氏が直接そう発言したのを記者がまとめたのか、それとも記者の受けた印象なのか定かではないが、それにしてもこれは穏やかではない。
大体『萌え』とは一体何なのか。『萌え』とは「複製物にもオーラを見る」というベンヤミンチックな現象なのか。自分はベンヤミンの事は殆ど何一つ知らないのだが、一応10分ほどリサーチして得た知識に基づいていうならどうもそりゃ違うんじゃないかと言う気がする。この辺に詳しく書いてある通り『萌え』は結局記号な訳で、オリジナルとコピーだの礼拝的価値と展示的価値だのという考え方を当てはめる事がもう既に困難なんじゃなかろうか。むしろもっとプリミティブに『萌え』というイデアを見る、といった方が適切ではなかろうか。
先ほど挙げた所を読むと『萌え』と言う観念が自発的に生まれたのはもう結構前の事のようだが、それに『萌え』という名前が与えられたのはそれから結構な時間が経ってからのようだ。この過程に於いて「萌え」と言う観念がそれ自体として抽出されてさまざまな下位の属性(e.g.妹、メガネ、ドジ、ネコ耳、巫女、メイド…)に付与されていったのがここ数年の傾向のように見受けられる。
ここから先に書く事は完全に個人的な印象であり、裏づけも何もないのだが、現在の「萌え」の基礎に当たる観念が発生した当時、それはそういった細分化された記号に含まれるイデアではなく、ある特定のキャラクターがたまたま内包している要素だったのではなかろうか。それを最大公約数的に割り切るための手段として考案されてきたのが「萌え」なのではなかろうか。しかしその後、この公約数が一人歩きを初め、それ自体がフェティシズム的な意味を持つようになった。それは最早キャラクターがたまたま持ち合わせていた要素を抽出した物ではなく、それをいくつか合わせる事でキャラクターを構成する部品となりつつある。人々はキャラクターがある「好ましい要素」を持っているから「萌える」のではなく、「萌え」を誘発するために必要な要素ををそのキャラクターがもっているが故に「萌える」。
こう考えたとき、「萌え」るキャラクターと「萌え」の要素とはあくまで哲学論的に考えるならイデア論の要素を持っているのだが、別の角度から見てみるならばダニエル=ブーアスティンが『The Image』(邦訳『幻影の時代』)で述べた有名人(celebrity)と知名度(well-knownness)の関係になぞらえられるのではなかろうか。メディアが発達する前の時代、偉人(great men)とは何らかの偉大な業績によって多くのたたえられる人だった。。そのような時代に於いては偉大さ(greateness)と名声(fame)はほぼ重なり合う物だった。ある人物が有名になるためには何らかの偉大さが必要であったし、その人物の偉業が人口に膾炙するまでにはある程度の時間が必要とされるため、偉人とは常に過去の歴史の中に存在する物だったが、メディアが発展した現代に於いては一晩の中にある人物が有名人になる事は全く珍しくない。さらにその過程ではその人物がかつてのような意味で「偉大」である必要はない。その過程は言ってみればメディアを通じて知名度を形成するだけの物で、本質的にその人物の偉大さを表すものではないからだ。しかし、情報の受け手としての我々はかつての「名声=偉大さ」というスキームに乗っ取って「知名度=偉大さ」と考えてしまいがちである。このような知名度の人工的な形成によって出来上がるのが著名人(celebrity)である。著名人とは偉大であるが故に有名である人物ではなく、知名度が高いが故に有名な人物、偉大と思われる人物である。偉人とは自然に偉人として認められていくもので、人工的に作り出す事は出来ないが、著名人とは本人、メディア、大衆などが作り上げる事が出来る物であり、しばしば意図的に作り出される物である。
今書いた事を「萌え」のコンテクストに当てはめて考えるとこうなる。「萌え」と言う言葉が作り出される以前、人々(というかヲタなのだが)が好ましい感情を抱くキャラクターというのはそのキャラクターが構成要素の一つとして内包している何らかの要素によってそのような感情の対象となっていた。勿論そのような要素に人工的な部分が全くないわけではなく、計算されて内包させられていた部分も多々あるだろう。しかし、その要素のためにキャラクターが存在していたのではない。ここがポイントである。これが「偉大さ=名声」という状態、言ってみれば「好ましい要素=人気」といった所であろうか。が、時が進んでそのような要素を計算して大量に盛り込む事でキャラクター、ひいては作品の人気を高める事が出来る、と言う事がはっきりし、それがビジネスの土台となったとき、全ては変わった。「好ましい要素」は人工的に形成され、それ自体がキャラクターの存在意義となった。そのように人工的に形成された「好ましい要素」をあらわす物こそ「萌え」ではなかろうか。「萌え」は知名度と同じで人工的、意図的に作り上げる事が出来る。そしてそのような要素によって作り上げられるのが「萌えキャラ」である。「萌えキャラ」とはキャラクターが好きだからそれに萌える、というのではなく、萌え要素が高いがために萌えるキャラクターなのだ。
こう考えると、先ほどの記事の中での「萌えは『わび、さび』に続く日本独自の美意識になりうる」という考えは何とも空しく聞こえる。このブーアスティン的な考えに当てはめて考えてみれば「萌え」の広がりは最早「わび、さび」のような芸術的、観念的な物ではなく、むしろ50年代末から60年代のアメリカから広がったメディアと大衆の関係にオーバーラップする、もっと泥臭い、金の臭いのする現象ではないか、という気がしてくる。勿論、この考え方だけで「萌え」について考えるのはあまりにも早計であり間口が狭すぎるのは重々承知の上であるが、個人的な見方として、ようやっと、ここ1,2年その傾向から脱却しつつあると言えども、依然としてビジネスとして、プロモーションとしての「萌え」の形成が作品、キャラクター作りの上で大きなウェイトを占めているように見受けられる以上、「萌え」を海外へ売り込む事、ましてや「わび、さび」に続く美意識として紹介する事はいささかの危険を伴うのではないかと思う。
No moe, No life、萌えなくして人生なし、となる時、我々とキャラクターのかかわりは全く新しい局面へ移行する。ある面に於いてそれは一つの革命が起こる瞬間かもしれない。産業革命(Industrial Revolution)、ブーアスティンのいう視覚革命(Graphic Revolution)、そして萌え革命。その革命の先にはどんなステージがあるのだろう。