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崖の上のポニョ

アニメの批評上の最も大きな特色というのは、「映画」としての観点に加え、あるいはそれとは別に、「絵画」もしくは「美術」としての評価というのが可能だということだろう。ここ最近の宮崎作品は、この2つの間に大きな開きがあったように思われる。「美術品」としての、「絵画」としての完成度は息を呑むほどに上がる一方で、プロット・人物・語りなど、「映画」としての統一感・深みといった所には、多少の疑問符がつく部分があった。今回の最新作でも、その分裂は、まだ存在している。しかし、これはもう、ある種のお約束というべきものとして見過ごしてもいいだろうという程度まで、その開きは小さくなった。今作は、美術的観点では宮崎作品史上、1つの新境地を築くと同時に、90年代を覆ったイデオロギー主導の文芸映画的内容から完全に決別し、さらに『ハウル』で示された新たなテーマの数々をさらに追い求めている。老年の境地にかかった宮崎の新たなスタンダードを示したと捉えられよう。

『豚』から実に十数年ぶりに、とうとう本当に何も考えなくても見られる宮崎作品が戻ってきた。しかし、そこにかつてのあふれ出すような躍動感・生気・リビドーは最早ない。あるのは、どこか枯れた、好々爺じみた世界である。公開前日にテレビ放映された『トトロ』を改めて見ると、そのあふれ出るリビドーに驚かされる。体を極限まで動かすことへの欲求と、不能者的でありながら、どうしようもなく溢れ出る少女への愛。特に、トトロと子ども達の出会いのシーンににじみ出るセクシュアルな臭いは、実に獣じみた、強烈な力を発している。3秒に1度はいやらしい事を考える中2時代のように、その力がさらには体を動かすという欲求と結びつき、飛び、走るシーンを途方もないものにしている。

宮崎は、『ポニョ』に於いて絵を動かすことに徹底的にこだわったと強調する。確かに、鉛筆の線を色濃く映した絵は、激しく動いている。が、その動き、いや、正確にはそこに現れる身体性には、往年の獣じみた力はない。『ワルキューレの騎行』をパロったBGに乗って海底から嵐の海面へとぶち上がるポニョ、そこから嵐の海面を波に乗って進むポニョと、波を逃れながら家へと突っ走る車とのカーチェイス、フジモトから逃れ、海面から顔を出した柵の上を走り、トキの元へと飛び込む宗介。確かに激しい動きを見せる。が、何故かあのアドレナリンが出る感じはない。宗介が走るシーンは、お馴染みの「それはどう考えても走れないだろう」という姿勢での走りも登場するが、かつてのあのセンセーションが甦る事はない。なぜなのか。恐らく、漫画映画的な緊張感がないからだろう。かつての『猫』に始まり、『コナン』や『カリ城』、『ラピュタ』に見られた、踏み外すと絶対死ぬ高さでの追いかけっこや綱渡りは、同時に、漫画映画であるがゆえに、落ちることはない、もしくは落ちても死なないというお約束があることは、見るほうは百も承知している。しかし、それでも「あっ」と思わせるのが味だった。この絶叫マシーン風の緊張感は、今ではすっかり影を潜め、代わりにあるのは主人公の年齢に相応しい、近所の児童公園の遊具程度の緊張感である。柵と、トキが待つ島との間の2、3メートルの海面を飛び越える。そこには子どもや孫の動きをはらはらしながら見守る好々爺の視線しか感じられない。さらに、今作ではとうとう空を飛ぶシーンがなくなった。海中が空の役割を果たしているのだが、そうは分かっていても、この変化は大きい。

技術的面を離れても、別の大きな変化がある。久々に「理想的」家族が描かれたのである。父親が留守がちな点で、宗介の家族はこれまでの伝統である「機能不全」を抱えてはいるが、『神隠し』での家族とは全く異なり、この家族はお互いを愛しているということが明確に覗われる。ポニョの「家族」は、多少不透明な部分があるが、一応両親とも健在であり、最終的に子どもの意志を尊重する決定を下す。『トトロ』的な家族へ回帰したと見る事が出来るだろう。

一方、いくつかのテーマは『ハウル』から引き継がれている。というより、この作品のかなりの部分は、『ハウル』を「分かりやすく」し、濃縮したものである。人面魚、半魚人、そして人間の間を行き来し、最終的にキスを受ける事で思いを遂げ人間になるポニョ(半魚人形態のポニョはいささか不気味な外見をしている。これは間違いなく意図的であろう。トトロじみたニヤニヤ笑いを見せたりもする)と、車椅子生活から、走り回れるようになるまで回復するデイケアセンターの老婦人達。小さいくせに紳士然とした宗介。この「変身」と「老年」は、宮崎作品の新たなお約束になるのかもしれない。

さて、ここのところ宮崎が頻繁に口にする「子どものための映画を作りたい」という思いは、今作では実現したろうか。ジブリ美術館で上映されている短編作品を踏襲したエンドクレジットや、単純化されたプロット(それゆえに、いくつかのマクガフィンが発生している)、緩い線にぺったりとした色使いと、背景や海、光の柔らかく、パステルじみた風合いの共存など、外見上はいわゆる現在の「アニメ」とは一線を画している。しかし、果たしてこれがどのくらい子どもにアピールするかは未知数と言わざるを得ない。事前の鈴木プロデューサーのコメントにも見られたが、私の見たところでも、子どもの反応は薄かった。集中力を切らして走り回ったりするようなことはなかったが、上映中の要所や終わった時にさしたる興奮が沸き起こるということもなく、至って静かなものだった。この子どもの反応も、恐らく身体性の減退と無関係ではないのではないか。現代の日本を舞台としたことで、『豚』以前の作品、特に『ラピュタ』と『トトロ』が持つ非日常、特に『トトロ』の、子どもにも認識が出来る現実的な生活上の非日常とファンタジーの混在は、一歩後退した。離島とはいえ、母親の車で保育園へ送り迎えされ、老人を訪ね、帰りにスーパーでアイスを買ってもらい、家ではインスタントラーメンを食べる。父親が不在であり、無線交信や発行信号を送らなければコミュニケーションが出来ないなど、アノーマルな部分はあるが、基本的には現代の子ども達の日常からそう大きく逸脱するもではない。さらに、その均衡を崩すファンタジーの侵入、ポニョの闖入と天変地異は、そんな日常生活への脅威というより、どこかのどかな部分のある1つの出来事に終始している感がある。少なくとも、サスペンスや緊張感は希薄である(天変地異も、「翌日には何事もなかったかのようにけろっと元に戻る」という雰囲気をたたえている。水没した街の姿は今作中で最も美しいシーンの1つであり、この種のシーンが一般的に映し出すアポカリプティックな雰囲気とは正反対である)。結果として、大人にとっても鑑賞後の感想は「いい話だった」というのが主であり、「面白かった」ではないのではなかろうか。個人的にはそうだった。

子どものための映画を作れるか。その答えは、公開初日の初回上映の前に、私の行った映画館の前に出来ていた長蛇の列が、ポケモンを見に来た子ども達の列であり、『ポニョ』は空席が目立っていたというところに象徴的に表れている気がする。宮崎作品はこの10年ほどの間に一種のメディアイベントになってしまった部分がかなりある。最早子どもが自発的に見たい映画ではなく、かつての宮崎作品を見て育った親達が見せたい映画になっているというのが妥当な見方ではなかろうか。

とは言ったものの、『ポニョ』はここしばらくでは最も野心的な宮崎作品であり、特に美術面においては大きな成功を収めたと言っていいと思う。海外に出せば、また例の「美しい」の大合唱が起こるだろう。「映画」としても、マクガフィンはこれまでよりはるかに少ない。『豚』から『もののけ』にかけて始まった思想的な泥沼と、そこからのリハビリは、とうとう終わったらしい。次回作では70代を迎える宮崎の今後を占う上で、1つの指標を与えてくれる作品である。