10月9日付の朝日新聞朝刊26面に昨今の「男1対女12人くらいのユルユルなアニメ」(因みにこれは僕が勝手に名づけた言い方ですので悪しからず)に関する記事が出ていた。かいつまんで言うとこの男1対女ワンサカワンサカの関係とはそのまま「現代の若者の一つの現実を反映している」と考えられると言う。言い換えると主人公である男は実世界においてゲームやアニメのキャラに囲まれて生きている若者の姿ではないかと言う事である。さらにこの説に従うなら猫耳のような「半動物」的キャラクターの意味も「作品の中でも、恋愛対象が人間でなくキャラクターぽいものへ移っている」と考える事で説明がつく。この記事自体それほど長い記事ではないので論旨はこのような簡単なものである。が、この記事についてはもう少し色々と考える事ができる気がする。
この記事の中の考え方自体はある程度の説得力があるものの、一つ考えなければならないのは、こういった女ワンサカワンサカという流れは何もアニメに限った事ではないと言う事である。メインカルチャーにもこういったものはあるんじゃござんせんか?言うまでもないっすね。モーニング娘。」っすよ。少なくとも僕の知る限り、モー娘。の数が増えだしたほうがアニメに大量の美少女対男1という関係が出来上がるより先である。「ラブひな」が始まったころには確かもうモー娘。は結構な数になっていた記憶がある(あまりモー娘には詳しくないので憶測で話している部分がある。許してたもれ)。そう考えると、この記事がなんとなく匂わせているような、「こういう現象はアニメを見ている人間の中にだけ当てはまるんよね、フフッ」というのは全くの嘘っぱちではなかろうか。いや、この言い方には問題があるか。言いたいのは男1対女たくさんと言う関係は何もキャラクターに囲まれているから云々と言う問題には限らず、もっと商業的な問題なんじゃありゃしませんかね、えっ、旦那、と言う事である。
その昔から恋愛シム(そうそう、あらかじめお断りしておくと、これから使う「恋愛シム」の定義はお子様にも安心して薦められるものの事です)の中では男1対女たくさんと言う関係は当たり前に存在していた。が、こういう恋愛シムと最近の作品の違うところはまず男が主体的に女を選ぶかどうかと言う事である。恋愛しムではプレイヤーが男になって女に告白されるようにあれやこれやするというのが目的だった。で、大体(大体っすよ、大体)の場合、女同士の間で積極的に男を取ろうと言う動きを起こしたり、挙句の果てに競争になることはなかったわけである。まあ、ある意味ゲームの性質上当然といえば当然であるが、逆に考えてこれを女性側から見た立場で作ったゲームというのは少なくとも僕は聞いた事がない。要するにこんなゲームっすよ…
某高校に通っている主人公(女子)のクラスに一人の男子生徒が転校してきました。特に外見がカッチョイイ訳ではないけれど、主人公はなんとなく彼に惹かれていきます。しかしそう思ったのは主人公だけではなく、時が経つにつれクラスで、部活で、誰にでも優しく真摯な彼に他の女子達も徐々に惹かれていきます。さて、ここからがプレーヤーの腕の見せ所。彼の真意を見ながら告白した時にウンと言ってくれるように1年間がんばりましょう!
この内容、よく見てみて欲しい。最近のアニメに似ていると思いません(思わないって?う〜ん、残念だ)?要は「女子ワンサカアニメ」の中では男を巡る一種の緊張状態が発生していると言いたいのである。アニメ(面倒なので以下こうやって単純に呼びますね)の中では男は主体的に状況を操作する側から選ばれる側になっているのである。で、所謂「ラブコメ的どたばた劇」が発生する。こういう関係が発生するのはとりもなおさず女性間で男性に対する影響力をめぐる競争が発生しているからに他ならない。それに対して男の役割と言うか、置かれている状態というのは積極的に働きかけてその中の誰かを落とすと言う事ではなく、黙ってエヘラエヘラ笑いながらその状況の只中で右往左往すると言う事なのである。で、こういうアニメの場合、最終的には男は誰か特定の人物を選ぶ事は期待されていない、と言うよりしてはいけない(ここは重要ですよ。テストに出ますからよく覚えておくように)。あくまで積極的に行動するのは女性の役割なのである。しかもそこには選ぶと言う要素はなく、あるのは競争である。男は最後まで台風の目的存在であり続ける。
良く言うと、この状態というのは性の役割が入れ替わったと言う事ができるかもしれない。女性一人を巡って男同士が競争すると言うのは物語の古典的題材である(もっともギリシアには男のために女が競争する話もあるっちゃあるのだが)。ただ、こういうアニメが描こうとしているのは別にそんな事ではない。というのも結局のところ視聴者が同一化するように意図されているのは一人しか出てこない男なのである。そこで、恋愛シムとアニメの相違点その2.近さの違いがクローズアップされてくる。これまでの恋愛シムの中では圧倒的に多いのは学園ものだった。この中では主人公と女性達との関係と言うのは同等と言っていいだろう。多くの場合(特にお子様にも安心して薦められる品の場合)、主人公と女性達は同じ学校の、いや、たとえそうでなくても少なくとも学生同士な訳でしょう。それともう一つ大事なのが物理的な近しさである。大方の恋愛シムでは、特に学園ものの場合、学校での交流を元にプライヴェートな部分の交流へと発展していく。要するにプライヴェートとそれ以外の区別があるのである。が、アニメのほうではそれが乏しい。言い換えれば主人公と女性達が一つ屋根の下に暮らしている事がままあるのです。こういうと「ゲームにもそういう状況はあるじゃないかと言うご指摘を受けるだろう。いかにも。僕が最近すっかりはまった某「サクラ大戦」はその好例でしょう。確かに彼らは一つ屋根の下に住んでますね。が、ここで先ほどの立場の問題が出てくる。恋愛シムでは学年の違いのようなものはあっても、プライヴェートな部分では立場の差というのはそうはない。が、アニメでよくある設定として、突然12人の妹が出来ました、だのある日突然女子寮の寮長になりました、だのと言うのがあるでしょう。あれは男がすでにプライヴェートな場において例えば「お兄ちゃん」であったり「寮長」であったりという女性達とは違う、特別な立場にあると言う事です。こういうとさらに「サクラ大戦」の大神はどうなんだ、奴は隊長じゃないか、と言う声が聞こえそうだが、あの作品の中での生活と言うのは極度の2重生活であると言う事を忘れてはならない。大神は戦闘パートでは隊長であるが、普段の劇場と言う生活の状態では使い走りなのである。確かに彼はプライヴェートな空間においても「隊長」だの「お兄ちゃん」と呼ばれているが、それは戦闘パートと言うもう一つの場、言ってみればパブリックな場があるからこそプライヴェートな場である劇場でもそう呼ばれているのであり、なおかつ劇場で行われている芝居(これは家庭と家事のアナロジーと捉えてもいいだろう)で支配権を持っているのは隊員達なのである。アニメの中ではこのようなプライヴェートとパブリックの2つの場の対立はなく、女子寮なら女子寮、島の家なら家という一つのプライヴェートな空間の中で、プライヴェートな生活が行われている。で、この空間の中ですでに男には特別な肩書きが与えられているのである。そのようなプライヴェートな場での肩書きを持つ事によって男は最初から大量の女性の間にいる事が何の問題もなく正当化される。さらにその事によって男は積極的な行動によって女性の行ってみれば承認を得ると言う必要から解放され、あぐらをかいていられるようになる。このあぐらをかいている状態はそのままテレビの前であぐらをかいてみている視聴者の状態と重なる。だからこそ主人公は選んではいけないのである。選ぶのは視聴者なのだから。視聴者の役目は妹とか寮の住人と言った形で自分が選べる立場で与えられた大量の女性の中から自分の見たい部分を自由にピックアップする事である。結局のところ、物語の内容では選ぶ側に立っていない男という男の立場はテレビの外の視聴者にその役目を与えるための方法なのである。
ここまで見てきて結局言いたいのは、男1対女たくさんと言うアニメの形式は、観客が見たい部分を自由に選べるようにするための商業的な戦略であるという事である。さらにこのことはアニメだけにとどまらない。最初に例としてあげたモー娘。も同じ事が言えるだろう。13人の女性達は「モー娘。」という一つのコンテクストの中でまとめられている。それを選んだのはつんくだが、さらにその中から誰が好きだという事を言うのはあくまでファンの仕事である。勿論全員好きだとか、グループとして好きだと言う人も多数いるだろうが、彼女達が成功した理由の一つは個々人のファンを「モー娘.」という一つのコンテクストの中にまとめ込んだからだと思う。さらに言うなら、この状況は男1対女たくさんと言う図式のみならず、反対の図式にも当てはまる。そう、ジャニーズっすね。
ただし、こういう芸能界の人々とアニメのキャラは決定的に違うところがある。それはアニメのキャラは往々にして(特に人数が多くなればなるほど)、ある特定の女性像(時として男性像の雛型を表しているものになるという事である。そもそもの元ネタになった記事では「こうした作品の女の子は大概、純真で優しく献身的だ(変化をつけるため乱暴なキャラヤ色っぽいキャラもいるが)」とある。果たしてそうだろうか。乱暴なキャラヤ色っぽいキャラというのは女性のある種の雛型のひとつとして登場しているのではなかろうか。そういったキャラの存在こそ恋愛シムなり、こういったアニメが存在しうる大前提ではないかと思われる。「セイバーマリオネット」シリーズではそもそもその事が明確に話の前提になっていた。つまるところ記事の指摘しているような虚構が取り囲む現実世界の虚構への反映と言うより、純粋培養されて抽出された女性像を振り分けて男性がその中から選り取りみどりで選べるようにするということがこういうアニメの本質だと思う。ある意味では記事の内容は正しく、現実の状況が虚構に投影されていると言うのはそのとおりだろう。しかし、その現実とは男性がこういうものと捉えている女性の全体像と言うか、存在であり、虚構の中に現れるのはそれをろ過して抽出し、振り分けて鋳型に入れたものである。その振り分けが細かく、ピンポイントになればなるほどはまった時の反動は大きくなる。それこそ製作者のねらいである。
お兄ちゃんは12人の妹達から一人を選んではいけない。妹達は表面上お兄ちゃんの優柔不断に憤る事はあっても、その実選ばれる事はさらなる問題を生むのである。
参照記事:「J-culture-NOW! 美少女キャラ 虚構に浸る「現実」反映」朝日新聞 2001年10月9日火曜日付け朝刊 29面。